「ノーと言える日本」の誤解

 
 「ノーと言える日本」という石原慎太郎氏の言葉が有名になりました。

 それはアメリカに対して言った言葉であったものが、日本人の私生活の素直さまでも否定する言葉となってしまい、今日本中の多くの人々が「嫌なことは嫌と言え」と解釈して、反抗や自己主張を美徳とする風潮が起きています。

 自分の気持ちが一番大切なのだから、気が向かないことはみんな「嫌だ」と言ってもよいのだと誤解して、堂々と「ノー」と言える習慣が、今日本中で始まっています。

 学校までも、個性教育とは、自分の気持ちを一番大切にすることであると解釈して益々助長しているかのような感じさえあります。

 「人の気持ちよりも自分の気持ちを一番大切にせよ」ということは、わがままと自分勝手を奨励しているようなものですから、学級崩壊が増加するのはあたりまえではないでしょうか。

 相手の身になって考えることの大切さを今日誰が教えているのでしょうか。

 自分の気持ちしか考えられない人は結婚しても直ぐに離婚してしまいます。子供が生まれても、自分がしつけを嫌がって来たのですから、子供に対してもしつけは出来ません。

 今の若者達はしつけや道徳をバカにして嫌っているために、就職をしても会社が大変に困惑しています。

 自分の気持ちしか考えないで、「嫌なことは嫌」と言う人が会社で勤まるわけがありません。他の人が嫌がることを喜んでやってこそお金は頂けるというものです。

 わがままな人にとっては世の中は嫌なことばかりです。「嫌なことを嫌と言って好きなことをしなさい、それが個性だ」と教えています。

 個性とは振りかざすものではなく、消しても消しきれないものが個性です。他人が喜ばれるものでなかったら、それは単なる癖というものであるのかもしれません。

 自己中心的なわがまま人間になって、誰もが何にでも「ノー」と言う人ばかりになったら、世の中は一体どうなってしまうのでしょうか。

 素直や忍耐の美徳はどこへ行ってしまったのでしょうか。d
 石原氏は十分な議論をすることが一番大切だと言っています。
 相手を十分に理解しようとすることが尊いのであって、ノーと言うのは誰でも出来る一番簡単なことかもしれません。